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2024.4.9公開
(前回のあらすじ)ロータスは、大学紛争の嵐の中で人数を減らしながらも毎年冬の定期演奏会を開催することができた。ロータスはこの嵐を乗り越えることができたかに見えたのだが・・・

14期浜田、16期井上、16期武藤の文章をまとめた物語です。
歌を忘れたカナリア
第16期部長井上と武藤がロータスに入部したのは1974年(昭和49年、第14期)だった。「単位の取りやすい先生を教えてあげるから」との、お決まりの言葉にだまされ、男声合唱団とも知らずに先輩に付いて行き扉をくぐると、いきなりの音域チェック。「君はセカンドじゃ」ということで、住所・氏名を紙に書かされた。中学・高校と水泳部であった僕にとっては訳の分からない男声合唱団への入部だった。
※1974年 ウォーターゲート事件、岡山一番街開業
1975年(第15期)、夏合宿は愛媛県の大洲青年の家だったが、驚いたことに正指揮者が参加していなかった。唖然としつつもやむなく部員はひたすらパート練習を朝から晩までやったが、合わせのないパート練習ほど張り合いのないものはなく、3日目あたりになるとあまり声も出ず、ただ椅子に座っているだけの状態になった。
そのとき、酋長(初代指揮者武内成禮の尊称、当時大洲中央病院長)が現れて全員がホールに集められた。開口一番
「なんじゃこの練習は!ロータスはまるで歌を忘れたカナリアではないか。」
と部員全員を見回しながら怒鳴った。以後、酋長の指導でSea Shantyを急きょ練習メニューに加え、やっと練習らしい練習が始まり合宿後半を終えることができたが、あれほど情けなく、辛く、悔しく、しんどい合宿はなかった。
しかし、秋に入って定期演奏会が近づいてきているのに部長と正指揮者は、ロータスに対する情熱は少なく週に1度ほどしか練習に出席せず、部員全員もダレてきて、とうとう練習参加者が8人にも満たない最悪の状態となった。
当然、ロータスメン全員が現状を自覚しており、冬合宿もすでに終えた新年の練習初日に部員全員で話し合った。この第15回定期演奏会にむけて「お客様にお金を頂くのは申し訳ない。」「演奏会を中止しよう。」という意見が出た。
さらに、こんな状態で演奏会をしても先輩に申し開きができないので、ロータスそのものを解散しようという話まで至った。しかし、数時間も話し合ううちに、
「ここで演奏会をやめたのでは支えてくださった上月明先生(当時常任指揮者、第10期指揮者)や近藤安个先生(客演指揮者、中国短期大学フラウェンコール指揮者)に申し訳ない、この際、恥を忍んで演奏会を完遂しよう。我々の代でクラブがなくなるのはやはり悔しい。次年度の役員を中心に皆でこのクラブをどこまで変えられるのかやれるだけのことをやってみよう。それでもだめなら先輩方にも謝って解散すればいい。」
という意見で全員の気持ちがまとまった。
文章に書いてみると簡単なようであるが、初めのうちは険悪なムードでお互い角を突き合わせるような激論が長く続いた。「解散!」という選択肢を皆が意識したとき、話し合いの方向が変わったように感じた。自分の代でロータスがなくなる。集まる場所、帰る場所がなくなる。それを思った時、自分にとってロータスとは何か、ロータスの仲間は何だったのかを全員が考え、引くより一歩前に出ようと思い始めたと思う。
第15回定期演奏会を迎えた。やはり、その年の状態を反映して、お金をいただく演奏に値しない恥ずかしいステージとなった。
レセプション(打ち上げ会)ではOBから「なんじゃあの演奏は!」と厳しいお叱りの言葉に頭を上げることができなかった。それでも、「ロータスだけが青春じゃねえ!」と息巻く指揮者とOBの間で一触即発の修羅場になりかけた。
定演後、部長と正指揮者の下宿に呼ばれた私に「広告取りでがんばり、練習皆勤賞の井上君が次期ロータスの部長
に相応しいと思うが、引き受けてくれないか」と打診された。私は「やるのはやってもいいけど、あなたたちのようないい加減な気持ちじゃなく僕は本気でやりますから」と、生まれて初めて年上の先輩に生意気な口をきいたのを今でもはっきり覚えている。
※1975年 ベトナム戦争終結、山陽新幹線博多延伸
復活への道
1976年(第16期)、部長になった井上は、ロータスにとって新入部員獲得が一番重要と感じ、新入生が入居したと聞いた下宿には毎晩出向いて「入部します」と言うまで帰らず説得して回った。練習に人が少ないと音程も下がり、雰囲気も悪くなることを痛いほど味わっていたからだ。
昼休みはBOX2階(旧BOX)のグリークラブの扉の前に立ち、グリークラブ(混声合唱団)で合唱しようと思ってやってきた新入生に「君、合唱に興味があるんじゃろう?そんなら1階のBOXが合唱団なんじゃ」と騙し、首をかしげながらついてきた新入生にピアノをたたき、「君はトップテナーだなあ」と入部届に名前を書かせた。おかげで私が2年生の時より10名程度団員が増えた。
30人以上で練習を始めた新生ロータスは、とても明るい雰囲気になり練習も充実したものになっていった。そのため第16回定期演奏会では「月光とピエロ」のステージで「まあ~しろけ~」の部分で、あの響きの悪い岡山市民会館でさえ倍音がはねかえってくることが分かり、3年かかって初めてハモることを知った。
※1976年 ベトナム社会主義共和国成立(南北ベトナム統一)、モントリオールオリンピック
第16回定期演奏会(1977.1.22) 岡山市民会館
第16回定期演奏会(1977.1.22)第4ステージ 男声合唱組曲「月光とピエロ」 岡山市民会館
1977年(第17期)に、4年生になった井上は役員からは解放されたが部員勧誘は得意なので次々と新入生を騙してロータスは70人を超え、ハモることが当たり前という合唱団になってきた。
第17回定期演奏会(1978.1.21) 第1ステージ 男声合唱組曲「智恵子抄」(昭和52年度委嘱作品) 岡山市民会館
※1977年 日本初の静止気象衛星「ひまわり」打ち上げ、王貞治通算756号本塁打達成・国民栄誉賞第1号受賞
1978年(第18期)に、工学部なのに5回生となった私は入学年度に経験した合唱コンクールに再挑戦することになった。ほんの3年前、ドミソの和音もハモれなかったロータスが見事な演奏をやってのけたため、結果は以前と違って、岡山県合唱コンクールで岡山大学グリークラブとノートルダム清心女子大学グリークラブを押しのけて優勝したのだ。このとき、卒業していた同期も応援に来てくれ、同期の16期チーフマネージャー川上と「留年していて良かったなあ」と言われながら抱き合って泣いた。
18期指揮者荒木(グリークラブに入りかけていたところを私が1階に連れてきて入部させた)も「練習でも聞いたことがないほどの美しいミサ(課題曲)だった」と感激していた。
しかし、中国コンクール(山口)では、残念な結果となり、中国コンクールを勝ち抜くことは大変なことだと痛感した。
第18回定期演奏会(1979.1.20) 岡山市民文化ホール 客演指揮 近藤安个
年が明けて第18回定期演奏会(1979.1.20)を迎えた。最後のステージとなった井上は、アンコールは涙で客席が見えなかった。
指揮者の荒木が決めたアンコール曲は、ちょうど10年前にロータスが挫折したころに誕生したクラブソング「コール・ロータスの歌」だった。今では定期演奏会のアンコール曲の定番になった「ロータスの歌」だが、しばらく定期演奏会で歌われていなかった。しかし、この年以降の定期演奏会では、アンコールで「ロータスの歌」が定期演奏会のフィナーレを飾ることが定番化したのだ。
※1978年 成田空港開港、中国自動車道路岡山県内全通

第6回「復活」に続く







